どれぐらいの時間がたったのだろうか。相変わらず白亜の壁に囲まれていて正確な時刻が分からないが、 が部屋を出たのが午前0時ぐらいだったから、おそらく1時ぐらいだろう。おおよそのあたりをつけ、 ずっと背中を叩いてくれていた青年から身体を離した。



「・・・・・大丈夫?」
「・・・ああ。俺は大丈夫だ」



少し精神的に不安になっただけでな、と薄く笑う。そう、その笑みは。まるで、全てを諦めたような、 他の『大総統候補』と同じ壊れた笑み。だけれどが青年をまだましだと思えるのは、完全には 壊れてしまっていないからだろう。その証拠に、青年と同じ年齢の『大総統候補』は、泣きそうに顔を歪めたり 、人間の体温に縋ったりしない。


「小さいな、お前」
「・・・まだ2歳だもの」



そう言って笑いかけると、青年はその黒の瞳を丸くした。驚かれるのも無理はない。体躯こそ 小さいが、見た目の割には落ち着いている。自分で2歳児だと告げるのは不本意だが、この身体で 精神年齢を告げれば、を見る目が途端に可哀想なものを見る目に変わってしまいそうだ。 なんだかんだで2年間もここにいたのだ。それを嘆くのも、否定するのも もうやめた。ただ単に、面倒くさくなってきたというのが本音ではあるが。



「そうか、2歳か・・・」小さく呟きながら、青年の無骨な手がの頭を撫でた。 自分より小さなものに初めて触ったのか、青年はひどくたどたどしい様子で手を動かす。



(・・・壊れてしまいそう、だ)



日々剣やらを握っている己の右手。節くれだった手をぎこちなく動かせば、手のひらの下にある の顔が嬉しそうにほころんだ。猫であればごろごろと咽喉を鳴らしていそうな表情に、青年も 知らず口元を弛める。



「お前も、『候補』なのか?」
「うん。お兄さんもでしょ?」
「ああ、そうだ。・・・・懐かしいな」



そう言った直後、手の動きが止まり、青年は視線をどこかへ飛ばした。誰か来たのだろうかと 頭に乗っている手をそのままに青年の視線を辿る。そこには誰もいなかったが、それを告げようとして 青年の顔を見上げ、は口を噤んだ。
きっとこの表情は、懐古だ。子供を見たことによって、青年は思考を過去に飛ばしている。 青年の表情は硬く、決していいものとは言い難い。おそらく、青年も物心つく前に売られたか捨てられたか したのだろうと予想できた。



「ねえ、お兄さん。・・・名前、何ていうの?」



の突然の言葉に、一瞬呆け、そして薄い笑みを口元に敷いた。そして、何を言っているんだ。 決まっているだろうと言うように、青年は口を開く。



「『大総統候補』だ。お前もそうだろう?」




最後の疑問符は付けられはしたが、それは確信の言葉だった。そう、この施設にいる限り、 己の名前は『大総統候補』だ。それ以外の何ものでもない。そういう意味を含めた青年の答えに、 は目を伏せ、ゆるりと首を振った。



「・・・違うよ、違う。私は、だよ」
「・・・?お前には名があるのか」
「うん。だから、って呼んでくれると嬉しい」



ここへ来て初めて名を呼ばれた、とは嬉しそうに微笑んだ。どうして、売られたはずの子供が 『大総統候補』以外の名を持っているのか青年には不思議だったが、が本当に幸せそうに笑っているのだ。 その疑問を投げかけてわざわざ水を差すこともあるまい。そう思い、青年は一つ頷いた。



「・・・お兄さんの、名前呼びたい」
「・・・・俺、の?」



うん、と簡潔に返事したは、青年の許可も取らずに勝手に名を考え始めた。うんうんと唸りながら、 小さな頭をフル回転させる様子が青年の笑いを誘う。思わず漏れた笑みにも反応せずに、は 名探偵のように手を顎に当てた。



だって、嬉しかったのだ。死んだと思ったら訳も分からないままここへ飛ばされて、ここの人間は 誰も以前のを知らない。の名前を、呼ばない。それは、の存在を否定しているのと同じこと。 だから、この2年間誰にも呼ばれなかったの名前をたくさんたくさん呼んでほしい。 あなたの名前を、『大総統候補』なんて無粋な名前じゃなくて、ちゃんとあなただと思える名前で呼びたい。 16歳から0歳まで’転生’したことは、を我侭にしたらしい。発想が子供の考えることだが、 それでも、の名前を呼んでくれた青年には、抱きしめて温度を分けてくれた目の前の青年には、 名を呼んで欲しかったし名を呼ばせて欲しかった。



「『大総統候補』・・・『キング・ブラッドレイ』・・・」
?」



青年の呼びかけにも答えず、ぶつぶつと言葉を紡ぐは、思いついた、とでも言うように 手のひらをもう片方の拳で叩く。ぽん、と軽やかな音を立てた手を青年の手に絡めた。



「で?何になったんだ?」
「えっとね、『ケイさん』」
「・・・・・・ケイさん?」



どうしてそうなったのだ、と青年の顔が語っていた。それに笑みを零しつつ、青年の手のひらに 文字を書くために人差し指を立てた。ぴとり、と指先を当てると、青年が擽ったそうに身を捩る。


「『大総統』は、『キング・ブラッドレイ』でしょ?」


ああ、と青年が答える。


「『キング』・・。『KING』、『K・I・N・G』」


ゆっくりとアルファベットを手のひらに綴る。


「『K』。・・・・・だから、『Kさん』」



伺うように青年の顔を見上げると、納得のいったかのように大きく頷いた。 そこには拒絶の色は見受けられない。



「なるほど、『KING』の頭文字をとったのか」
「そう。・・・ケイさんって、呼んでもいい?」



勝手に青年の名を決めたにしては、珍しく慎重だった。名前を決めたのはの我侭だったけれど、 その人が本当に嫌なことはしない。だから、青年の顔色を窺うように、躊躇いながら青年の顔を見つめた。



「・・・ああ。今日から、俺は『ケイ』だ」



優しい笑みを浮かべた青年-----ケイに、は満面の笑みを浮かべた。




が勝手に決めた名前ではあるが、それでもケイにとっては嬉しいものだった。『大総統候補』 なんてほかの人間と同じ名称ではなくて、青年個人の名前。青年が確かにここにいると証明してくれているみたいで。 嬉しい。自分を自分にしてくれた彼女の存在が、嬉しい。こんな感情は、物心ついて初めて 感じたものだった。



「・・・俺は、ケイ・・」



から与えられた名前を噛み締めるように、青年は何度も呟いた。