どうして、私”色欲”なのかしら。
誰に言うでもなく、放って置けばただ空気に溶けてしまうようなその言葉が、の耳に入り込んできた。
いつもなら彼女たちとは計画に関係のあることしか話さないのだが、他でもない彼女が
--------あの彼女が、だ---------自分の存在を疑うような言葉を呟いたことに驚愕して、
思わず振り返ってしまう。そこにはいつものように、胸元を惜しげもなく寛げ、黒衣を身に纏った
ラストが窓際で佇んでいる。
懲りもせず、いつもの部屋で時間を過ごしていく彼女たちホムンクルスではあるが、
今日はどこか様子がおかしい。窓際の出っ張りに腰掛け、窓の外を見遣るラストの眼は
決して景色を見ていない。確かに眼は外を見ているが、その光景を脳内にまで刻みこんでいない
、とでも言うべきか。ゆらゆらと黒曜石のような瞳が揺れ、何かと葛藤しているような
表情を湛えるラストは、”色欲”の名に相応しい、自信たっぷりの”ラスト”ではない
とは思った。
「ラスト」
黙り込んでしまったラストの名を呼ぶと、剥き出しの肩がビクリと震える。どうやら、
先程のラストの言葉は独り言だったらしい。人の部屋に入り込んで、家主の存在を忘れるとは、
何とも罪作りな女性である。
「・・・ねえ、」
「はい、何でしょう」
「私、おかしいのかしら」
ほぅ、と悩ましげな、色気のある溜め息を吐き出したラストは、計画のために接触している
、ある金髪の男を思い出していた。
最近、ラストはおかしい。
ロイ・マスタングの部下で、加えタバコがトレ−ドマークの男。ヘビースモーカーの癖に、
ラストと会う直前には必ずそれを消してきて、いつも花束を携えてくるある人間。
その男を、毎日思ってしまい、そして仕草を思い出して言いようのない憂鬱に
駆られてしまうのだ。今の自分が”自分”らしくないと言うことなど、ラストだって分かっている。
けれども、”欲しい”と思ってしまうのである。
これは、どうしたことだろうか。考えても考えても、ラストには分からない。
分からないけれど、この自分が、お父様の求める”ラスト”ではないこと-------それは、
百も承知だった。
「____好きなのですね」
ラストの思いに、暫く物思いに耽っていたは、ようやくそう告げた。
にだって、恋の経験はあるから、-------それは決して受け入れられることはなかったけれど-------
”欲しい”と言う気持ちは分かるのだ。その眼がを映してだけに微笑んで、
抱きしめてくれたら、と。今はファーストレディとなった彼女を見て、今も思う。
ラストも、こんな気持ちを抱いているのだろうか。
「そんなんじゃ、ないのよ」
-----好き、なんて高尚なものではない。恋焦がれるような、ともいった綺麗な感情でもなかった。
ただ、自分であるはずの”ソラリス”が、ひどく羨ましいと思うだけで。
「何なのかしら、これ。---------あのへらへらした男が、”欲しい”なんて持ってしまうなんて」
------------欠片でもいいから。
闇に慣れてしまったでもぞっとするような昏い声で、ラストは呟いた。そうして
胸元の”ウロボロス”の印にそっと手を宛がう。
一度だけ、聞いたことがあった。ラストたちホムンクルスは、人間からすれば化け物なのだが、
生みの親に対する愛情も、感情も、五感もきちんと持ち合わせているというのだ。”人間”としての
感情と、”色欲”としての衝動。今、きっとラストは--------迷っていたし、悩んでいた。
*
最近、プライドからラストが死んだと言う話を聞いた。
いや、死んだと言うより消滅したとでも言うべきか。肉体だけではなく、核となる賢者の石まで粉々に
砕けてしまったらしい。それを聞いたとき、どうして死んでしまったのだろうかと、彼女の
死を悼む気持ちと、「やはりな」、とその死を予期していた矛盾した気持ちがの心の中にはあった。
ラストは、第3研究所に侵入してきた人間を殺すために赴き、ジャン・ハボックとロイ・マスタング
と邂逅した。そうしてロイ・マスタングに幾度も燃やされ、焦がされ、石の再生力を失って、
消えた。あの、最強の矛を誇るラストが。
ジャン・ハボックが、入院したらしい。どうやらラストに刺された傷が致命傷となり、
下半身が麻痺し、軍を退役せねばならないようだ。その話を聞いたとき、
ラストから相談されたあのことを思い出した。”ラスト”が欲しい、と執着した人。
会いに行こう、とそう決めた。
コンコン、
2回ほど扉を叩くと、中から「どうぞー」という間延びした返事が返ってくる。
ノブを捻って室内に入ると、来訪者がまさかだとは思わなかったのであろう。ジャン・ハボックは
ベッドに横たわりながらぎょっと目を見開いて、を見つめた。
「直接お会いするのは初めてですね、ジャン・ハボック少尉」
「・・・・どちらさんで?」
「ああ、私、・ブラッドレイと申します」
「ブラッドレイ・・・?」
の名前は知らなくとも、ブラッドレイの名前は国民的に知られている。ジャン・ハボックも
大総統であるキングを思い出したらしい。眉を吊り上げ、訝しがるような表情をする。
「そのブラッドレイさんが、何の御用で?」
「・・・こちら、座ってもよろしいですか?」
「あ、どうぞ」
「今日はお見舞いに。果物を持ってきたのですが・・・林檎、食べられます?」
あえてハボックの問いを無視しながら、は林檎を器用に剥き始めた。林檎を回し、
しゅるしゅると皮が剥けていく様を、ハボックはじっと見つめる。
(なんで、俺こんなことしてんだ・・・?)
初対面の相手と二人きりなんて、空気が重い。いつものハボックなら、女性と二人きりとシチュエーション
は手放しで喜ぶのだが、先日起こった事件で今はあまり女性とは二人きりになりたくない、
というのが本音だった。
「あの、」
「ラストを、ご存知です?」
「-----------!!」
傍から見ても、びくんとハボックの体が強張ったのが分かった。
「アンタも、ホムンクルス、か・・・?」
「いいえ。私は-----------」
一瞬、どう答えるべきかと迷った。ホムンクルスの定義を”賢者の石”が埋め込まれていること
とするならば、だってそうだ。真理と名乗るシロに、右目へ石を埋め込まれた。
それは、不死にはならなかったが、今度は年を取らなくなってしまった。不老。
だけれどは、自分がホムンクルスだとは、思っていない。ホムンクルスのような、
圧倒的な再生力は持ち合わせていないからだ。致命的な怪我を負えば、だって
死んでしまう。
「-------人間ですよ」
剥きおわった林檎を差し出し、笑う。ハボックはその答えに安心したようで、ほ、と
小さく息を吐いた。だけれど次には視線が鋭くなる。
「ただの人間が、何故そんなことを知ってる?」
「-------一応、友人だったので」
「友人?」
ホムンクルスは嫌いだが、ラストは好きだった。
「貴方のことも聞いていました」
「・・・そ、すか」
「・・・ラストを、憎んでいますか」
その言葉に、ハボックは異常なほど反応した。あのときのことを思い出しているのか、
悲痛そうに顔が歪められ、窓のほうへ逸らされる。奥歯を噛み締めているのが、
からでも分かった。
「ラストは、貴方を愛していました」
「っ、そんなわけ、!」
「本当です。貴方が欲しいと、言っていましたから」
こちらを向いた顔が、信じられないといっているようだと、は思った。それは当たり前のことだ。
だって、ラストすらも信じられないという表情をしていたのだから。
「ソラリ・・・ラストが、そんなわけ・・ないっすよ」
「そうでしょうね。だけれど、ラストはホムンクルスである前に、人間なのです」
「・・・」
「ちゃんと、感情もある。貴方に愛情を持っていたのも、不思議ではありません」
ハボックは天井を仰ぎ見ると、無骨な手で顔を覆った。表情はから確認することは
できない。だが、何故だろうか。ひどく泣きそうな雰囲気だと思った。
「---------ラストは、ホムンクルスの”ラスト”でなければならなかった」
「、っ」
「だから、貴方のその傷は・・・ラストの、”ソラリス”としての最後の執着だったのだと、
私は思います」
扉を閉めると、中から小さな嗚咽が聞こえてくる。は一瞬、眼を伏せた。
ハボックの足はもう動かない。ラストの「欠片でもいいから欲しい」と言う願いは、
ラストが死んでから叶えられたのだ。
は廊下を歩き始めた。今日はプライドに黙って出かけたのだ。こつこつ、と
靴が床を叩く音が響き渡っていた。