孤独に濡れた手-V
いったい、どれだけの時間が経ったのだろうか。
しゅるしゅると、石畳に布を引きずる音が耳に飛び込んで、は目を覚ました。
だんだん濃くなっていく気配と足音から察するに、その人物はこちらへ近づいてきているらしい。
それは壁を隔てた向こう側からではあったが、何も見えぬ暗闇の中ではほんの些細な
布擦れの音でも聞こえてくる。 異常に聴覚が冴えているようだ。
かたんっと金具を外すような音を拾い、反射的に、耳元へ手を当てようとして--------
そういえば手枷をされていたのだと思い出す。
ここに閉じ込められて何日経ったのかは、時間を知る術のないには分からなかったが、
しきりに訴える空腹と、襲い来る睡魔からして幾日かは経っているらしい。
いい加減暗闇に目も慣れてきたところであったから、突然開いた扉の向こう側から漏れる光に
目を細めた。次いでゆっくりと姿を現した人物が目を刺すほどの眩い光を遮り、扉の入り口を
塞ぐように立っている。
「・・・・生きておるか」
ひんやりと冷たい、無機質な声がした。ゆらり。
その声の人物が持つ松明がゆらりと揺れ、女性の能面のような顔を照らし出した。
美形を見慣れていたではあったが、この女性は美しさの中にぞっとするような冷たさを持ち合わせている。
何の温度も感じさせぬ無機質な目で、地面に横たわったを見下ろした女性は、もう一度
「生きておるか」と呟いた。
「・・・・だ、れ ?」
◆ ◆ ◆
「・・・あの童はどうしておるのじゃ」
さも今思い出したかのように、御簾の向こう側で待機している側女へ何気なく聞いた。
あの突飛な登場をした童が地下の牢屋に入れられてから、およそ五日。
側女たちに『殺してはならん』という命令は出したが、その後の処遇ついては何も告げていなかった。
だけれど、優秀な側女のことだから、義姫の命令の意味を把握しているのだろう。
そうでなければ、子供の身の回りの世話をやっているのかという言葉に、
「そのままにしております」という簡潔な答えが返ってくるわけがないのだ。
「・・・・飯もやっておらんのか」
義姫をよく知らないものがその言葉を聞けば、彼女の心象はいいものに違いない。
言葉だけを聞けば、その子供を心底心配しているように聞こえるだろうから。
疑問であるが、その実確認であるその言葉に、側女たちはびくりと身体を震わせて-------
「是」と口にした。
にぃ、と口端が吊りあがるのが分かる。
幸いにもその表情は御簾によって隠されていたので、側女たちに見られることは無かったが。
____あの童は、保つ(もつ)だろうか。
いい加減五日経っているし、そもそもあのような小さな形(なり)だ。
今頃空腹で死んでいるのではないか、と思ってしまっても仕方がないだろう。
ただ、もし童が生きていたら。そのとき、は。
「・・・あの童を見に行ってくる」
「っ!なりませぬ、義姫様。・・・そのようなことは私どもめに」
「構わん。妾(わらわ)が行くと言ったら行くのじゃ。・・喜多」
これでこの話題は終わりだとでも言うように、ぴしゃりと言葉を投げかけた義姫は側にいた
喜多を呼びつける。
それに応えるために静かに頭を下げた喜多へ、比較的柔らかな視線を向ける。
「あの童の食事も用意しておけ」
「はい。畏まりました」
◆ ◆ ◆
現れた女性は、名を「義姫」と名乗った。
本人はただの下女だといっていたが、その身に纏う着物や口調からして高貴な立場のもののように思える。
その尊大な様子に、「義姫様」と呼んでみると、義姫の柳眉が面白いぐらいに跳ねた。
どうやらその予想は当たっていたらしい。
「何の御用ですか」
水分が足りず、からからになった咽喉から掠れた声を発する。
義姫はその声が癇に障ったのか、不愉快そうに眉根を寄せて、傍らに持っていた
水差しを差し出した。
なみなみに注がれていたのか、注ぎ口から水が垂れ、石畳に広がる。
受け取ろうにも、五日飲まず食わずの身体は起き上がるのも億劫で、その黒の瞳に義姫を映し出すだけにとどまった。
思った以上にダメージを受けていたらしい。
おそらくは精神的ショックの問題もあるのだろうけれど。
「・・・いらぬのか」
「・・・・・・いり、ま、せっ ん、」
思うように紡げぬ言葉に歯痒い思いを抱きながら、必死に「否」と唱える。
--------待てども待てども、紅麗は来なかった。
幼い頃より、ずっと紅麗とともにいたにとっては、それは何よりも耐え難いことだった。
血の繋がった兄よりも、その存在は重く大きな割合を占めている。
時空流離には自分が勝手に入ったのに、紅麗に裏切られたような、見捨てられたような気がして。
もう少しまともな思考回路ならここまでが追い詰められることはなかっただろうが、
この密閉された空間で、四六時中暗闇が付き纏い、蓄積される疲労感。
精神が病んでいくのも当たり前だ。 ましてやはまだ13歳であり、育った環境も普通の
子供とは違う。
「・・・喰え」
「い、ら なっい!-------紅麗様!」
水がいらぬのなら今度は、と食べ物を差し出されて、思い切り首を振る。
鉛が乗っているかのようにその首は重かったけれど、全 て を 、拒 否 し た い という
思いが、体を動かして。
紅麗様紅麗様紅麗様、あなたが、貴方がいないのならば。わたしは、すべてを 、。
ちらりと目に入った義姫の表情は先程と何も変わっておらず、
眉間に皺を寄せている。
「このままでは死んでしまうぞ、童」
「・・・・・・・・」
______『構わない』と告げるのは躊躇われた。
どうして。わたしは、絶望したはずなのに。このまま闇に飲み込まれて死んでいくのも、
静かに受け入れようと思っていたのに。
だって、わたしにとって紅麗様はたった一つの光だった。
母がいなかったわたしを、いつも抱きしめてくれた、優しくて哀しい、ひと。
紅麗様はわたしのちっぽけな世界の、神様だった。
その沈黙をどうとったのか、義姫はに近づき、膝をつく。
ぱさぱさになってしまったの黒髪を撫で、葉の包みを取り出す。
葉を開くと、塩で握られた簡素なおにぎりが顔を出した。
にとって久しぶりの米の匂いが鼻腔を擽り、同時に大きなお腹の音が鳴る。
「っ、」情けない、と思った。
心は全てを放棄しているのに、の身体は正直に空腹を訴え、生きることを望んでいる。
その欲望に赴くまま、渾身の力を振り絞って義姫の手からおにぎりを引っ手繰る。
----恥も、懐疑心もかなぐり捨てて。大きなおにぎりを頬張る。
「___本当は、生きたいのであろう?」
今度は無機質なんかではない、柔らかな声色が降ってきて、その言葉を聞かないように
無心に食らいつく。 腹を満たそうとするあまりおにぎりを詰め込んでしまって、味なんかはさっぱり分からなかった
けれど。 今まで食べた何よりも美味しいと、思った。
全てを棄ててもいいよ。けれど、紅麗様。’これ’はあなたが助けてくれた命だから、だからね。
「生きたい・・・!!」
紅麗様に置いて行かれても、体中が生きたいって叫んでる。
ぽろり、と当の昔に枯れ果てたと思っていた涙が、後から後から溢れ出していく。
それはお仕えすると決めたたった一人の人を、失くしてまで生きたいと縋る自分が情けなく思ってか。
それとも、
「生きる理由が欲しいか」
そうやって、優しく頭を撫でてくれる義姫様が光みたいに見えたからだなんて。
(本当、どうかしてる。)
<2009.1.17>
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