『生きる理由が欲しいか』という義姫の言葉に肯定するように、は恐る恐る差し出された手をとった。
義姫の手は自分とは無縁なほど綺麗で、タコも何も傷一つない綺麗な女の手だった。




孤独に濡れた手-W







「湯加減はどう?」
「あ、大丈夫です」

ふわり、と花が咲くような柔らかい笑顔での返事に微笑んだ女中は、床に落ちた洋服を拾い集め、腕に抱える。
スカートと、下着と、ブラウスとセーター。
すべてが黒に統一されたそれは、もともとあちらで汚した 上に牢屋での埃がついたものだから、盛大に汚れている。
-------もしかして、処分されてしまうのだろうか。
義姫とはまた違う雰囲気の美人の行動を 見ながら、ふとそう思う。
が’侵入者’という立場にいるため、そうなってしまってもおかしくはないのだけれど。


知らずの内に、顔を顰めていたらしい。
女中はの顔を見た後、苦笑して「これは預かるだけだからね」との服を指差した。
別に、預かられてもそれはただの服だ。別段困ることもない。
そう思って、こくりと頷く。



「お風呂から出たら、そこに掛けてある布で身体を拭いてね」


拭き終わったら呼んで頂戴、と続けられた言葉にもう一度頷く。
それを確認した女中は、の服を持って湯殿から出て行ってしまった。


ぱしゃり。お湯が跳ねて顔に散った水滴を拭おうと、右手を持ち上げる。
何の違和感なく持ち上がった手には、手枷を無理やり外そうとして抵抗した痕が残っていた。
もう片方の手でその痕をなぞり、息をつく。



牢屋での動きを制限していたはずの枷は、義姫の手を取った瞬間に外され、 今はもうその場所にはない。
もちろん、足枷も。どちらも外された後、義姫に連れられて来たのがこの湯殿であった、というわけだ。
「これを綺麗にしろ」と側にいた女中へを押し付けて、義姫はさっさとどこかへいってしまった。
本当は義姫の着物を掴もうとしたのだけれど、暫く動かしていなかった身体は麻痺し、咄嗟には動かなかったのだ。
固まってしまったはそのままあれよあれよと女中の手によって洋服を脱がされ、現在に至っている。



湯船に浸かっていると、温かさとお湯の包み込む感触が気持ちよくて、寝てしまいそうになる。
母親の腹の中-------羊水にでも浸っているような懐かしい感覚、だろうか。
には学がないから分からなかったけれど、ほんわかと心身ともに安らいでいく気がする。

思わず欠伸が出て、それからそろそろ出ようかと思案する。
義姫を待たせているのだ。ここで寝てしまうのはあまりにも拙い。
ゆっくりと立ち上がった。




◆     ◆     ◆    




あの子供をどんな風に使おうか。


手に持った扇を閉じたり開いたりしながら、義姫は思う。
『生きる理由が欲しいか』の答えに、子供は(恐る恐るではあったけれど)手を重ねてきたのだ。 これから義姫に仕えると解釈してもいいだろう。
ふむ、と芸術品のような綺麗なラインの顎をさする。
普通の女中でもいいけれど、それでは義姫が面白くないから。

・・・・・草でも・・いや、護衛をさせてみてみようか。
あのような小さな体躯ではあったけれど、きっとあの子供は強い。
牢屋ではだいぶ憔悴していたが、それでも暗闇の中で浮かぶあの’瞳’は、確かに人殺しの目だった。
義姫の知っている人殺しの’瞳’とは大分違った子供。
世界の理を知り尽くしたような____「義姫様」


「・・・・なんじゃ」
「童を連れてまいりました」
「入れ」



思考を途中で中断されて、不愉快になったが、そんな気持ちは湯殿に入って綺麗になった子供を見て-------- ふっとんだ。


湯上りでほんのりと色づく頬。鴉の濡れ羽色の髪。それと同色の目には、吸い込まれそうになるほど の力強さが感じられる。

「・・・・化けたものじゃな」

義姫から自然とその言葉が口をつく。
じっと見つめる義姫から逃れるように身を捩ったを御簾の中へ引き入れ、至近距離で目を合わせる。
外から引き攣った悲鳴が聞こえた。(おそらく女中の一人だろう)



「・・・名は」
「あ、え、と。・・・森、です」


か・・・」閉じた扇を唇に当て、その名を咀嚼するように何度も呟く。
子供-------は、その様子を不安げに見つめながら、義姫の言葉を待った。



「さて、お前に質問じゃ」
「・・・はい」


ついにきた、と思った。

姿勢を正して、ほんの少し身構える。
だけれど、義姫に嘘をつく気はなかった。
義姫はの命を繋いだ恩人である。出身地、所属、聞かれたら包み隠さず伝えようと思った。
が____


よ。お主、護衛はできるか」
「は?・・・・あ、いえいえ。失礼いたしました」


予想外の質問過ぎて敬意を払うのを忘れていた。
無礼だったはずのの言葉をスルーして、義姫は再び口を開く。


「女中でもいいのじゃがな。すでに人数は足りておる。・・・・そこで、じゃ」


とそこで一端言葉を区切り、口元にあった扇を手のひらに打ち付ける。
ぱしり、と軽快な音が響いた。


「お主にはある人物の護衛をしてもらう」
「・・護衛、ですか・・・・?」


何でもないことのようにそう告げた義姫へ、訝しげな視線を送りつける。
護衛が得意ではない云々の話ではないのだ。
どこの馬の骨とも知れないこんな小娘を、’ある人物’の護衛に任せてもよいのかということ。
自慢ではないが、自分は未だ怪しい人物の立場にいるだろうに。
がどこかの間者とは考えないのだろうか。
義姫にそう聞くと、

「ありえん」
となんとも簡潔な答えが返ってきた。


「・・・・・・何故です?」
「まずお主には行く所も帰るところもない」


誰もお前を迎えに来る様子もなかったしの、と続けられた言葉に言葉が詰まる。
その通りだ。女中に聞くと、が現れてから6日ほど経っているというに、誰も何も 情勢は動かなかったというのだ。
紅麗がを迎えに来なかった、あるいは来れなかったとしても、織田信長を殺しているはず。
それなのに尾張は露ほども動かなかったという。
はそれを聞いて、やはり紅麗たちと自分は別の世界へと送られたのではないか、と考えた。
『動かなさ過ぎておかしい』のである。



けれど、それはの様な場合だからだ。本来なら間者というものは敵に捕まれば、 主から棄てられてもおかしくない、所謂’駒’のような人間である。


「・・・わたしが、主から捨てられたのかもしれませんよ」
「’紅麗様’にか?」
「・・っ!」



きゅ、とが身体を縮こまらせた。
義姫は知っている。が、’紅麗様’という名を呼んだ時の、縋るような声色を。
痛々しくて、哀しそうで、それでいて-------甘い。

(欲しい欲しい欲しい------その甘い声で縋って請うて啼いておくれ)

どろりとした昏い感情を、その小さな身体に向けて、義姫は囁いた。




「誰もお前を助けになど来ぬよ」




------いっそ、砂糖菓子を溶かしたぐらいにドロドロとした甘い響きを持って。


「お前は永遠に一人じゃ」



さあ、どうする?と義姫の弓なりになった目が細まって、は大袈裟なぐらいに震えた。
今、の目の前に出された選択肢は3つ。
主を思って死んでいくか、寿命まで独りで生きていくか、----------それとも、義姫の手をとるか。


紅麗様、紅麗様。貴方のために生きたい。だけれど独りは-----怖、い。


ならば、のとる選択など一つだ。
ゆっくりと瞬きして、義姫の整った容貌を見上げる。


「義姫様の意のままに」



ぱりぃぃっ!

その言葉に、義姫は満足そうに頷いて、の頬に手を伸ばす。





「-------妾のために生きろ」


文字にすればたった10字。けれどもその言葉は確実にの心を揺らして、 涙が零れそうに、なる。
ああ、頬に添えられた手が、優しい。




「-----はい。あなた様の、ために」

紅麗は、罵るだろうか。詰るだろうか。それとも、嘲るだろうか。
けれども。けれども。ここにあるのが本当の温度だから。
もう、失いたくはないから。


「義姫様の、ために」(紅麗様のため、に)



滲んだ視界に’あなた’が見えた気がした。




<2009.1.19>