孤独に濡れた手-T
------------恐怖が、無いわけではなかった。
わたしたちは、所謂異世界に飛び込むわけであって(異世界で過去、なのだけれど)、
何が起こるのか分からない未知の世界で無事にいられるかどうかすらも検討がつかない。
もしかしたら死んでいるかもしれないし、生きているかもれない。
決して、先が見えない恐怖。
だけれど、不思議と躊躇いは無かった。
「わたしも、お供いたします。・・・紅麗様」
決して綺麗な場所とは言えないだろう、強い欲望と殺意の残り滓が混ざったこの空間で、
深々と”主”に頭を垂れる。 それに「勝手にしろ」と彼は呟いただけで、早々と時空の歪みをくぐってしまった。
その姿に、苦笑いを一つ。 そのままゆっくりと立ち上がって、自分よりも幾分も背の高い彼らを見上げる。
「皆さん、お元気で!」
「-------っ!!」
いつの間にか背後に構えていた暗闇が、の小さな身体をズブズブと暗いどろりとした時空の歪みへと
いとも簡単に飲み込んでゆく。
それに身を任せたまま、は未だ悲痛な顔をして己を見つめる彼に、へらりと笑いかけた。
--------------だって、不思議と躊躇いは無かったのだ。
◆ ◆ ◆
それは、いつものように部屋に呼んだ童子に舞を踊らせている途中に起こったことだった。ぴしり、
と何かが砕けるような音がして、空間に走った亀裂。その瞬間、まるで世界中が時を止めたかのように
部屋の空気が固まった。自分も、部屋にいる人間も、身体一つ、いや、指一本動かすことができずに、
その不自然な空間を見つめる。時間にすればたった数秒。それでも、
体感時間が麻痺してしまったかのように、たった数秒の時間が永遠のように感ぜられた。
「っは、」押し殺された息が咽喉から漏れたと同時に
亀裂が広がり、思わず身構える。
(・・来る)
新手の敵武将か、それともアヤカシか。
義姫には全く分からなかったけれど、’悪いもの’だと思えはしなかった。
ずるり、と黒い靄のようなものが亀裂の間から漏れ、ゆらゆらと揺れる。
(・・・何じゃあれは・・。手、か?)
人の手のようなものが空間の亀裂からはみ出しているのが見え、義姫はおもむろに立ち上がった。
空間にぽっかりと浮かんでいる不自然に突き出されたその手は、
武将というには程遠い小さな手だった。病的なまでに白い義姫の手とは正反対に、
その手は健康的な肌色。
何もない空間でゆらりと揺れる手は一種の怪奇現象である。
義姫はそんなさも怪しげな小さな手に引き寄せられるように近づこうとするが、その身体は
同じように我に返った側女たちによって引き止められた。
「っ、放せ」
「なりませぬ、義姫様!」
美麗な顔をくしゃりと歪め、なりふり構わず義姫を押さえつけてくる側女たちを睨みつけると同時に、
何かが倒れてくる音がした。どさり、と畳に打ち付けられた人物を振り返り、目を見開く。
「・・・まだ、子供ではないか」
畳にうつ伏せで倒れこんでいる童は、なにやら奇怪なものを身に纏っている。
全身黒色で統一された、着物を膝丈にまで縮めたものや(裾のあたりに襞がついていた)、指先からふくらはぎの部分
まで覆われた見たことも無いような質のそれ(恐らく自分たちが穿いている草履と似たようなものだろう)は、
義姫や側女たちが今まで目にしたこともないような装いだった。
うんともすんとも言わない童の身体を、側女たちが2人がかりで持ち上げる。
童はその行為に一度ピクリと目蓋を震わせただけで、意識はないままだ。
側女たちは童の様子を伺いながら、不審者を部屋から運び出した。
おそらく、地下の牢屋にでも連れて行くのだろう。
「・・・喜多。殺してはならんぞ」
「はい」
義姫は近くで無表情を保っていた喜多にそう忠告し、荒々しく運ばれていった童の
方を見遣った。彼女らの姿はもうない。相変わらず仕事の早いことだ。
喜多は義姫の言葉に目を見開き、神妙に頷く。
突然の来訪者は、一体己に何をもたらしてくれるのだろうか。何か面白いことが起こりそうだ、と
義姫は満足げに笑った。
<2009.1.17>
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