世界崩落音-[
「市、どこにいる」
低く、己の身体に巻きつくような。ざらざらとした殺気を孕む声に、市は首を竦めた。
「----------、」小さな叫びを上げそうになり、口元に手を当てる。ぎし、ぎし。
廊下をゆっくりと歩く音は、確実に市の居る場所へ向っているが、多分まだ見つけてはいないのだろう。
足音を立てぬように部屋の奥へ移動し、押入れの中に隠れる。
「市、市、いち、どこだ、市」
「は、っ、っ、・・・、」
心臓が、煩い。今の長政は、市の知っている長政ではない。残虐なことを繰り返す
ただの「器」だ。市だって、見つかってしまえばただでは済まない。それに、
正気に戻ったときの長政がいつも悔しそうな、悲しそうな目で市を見るのだ。
そんな顔はして欲しくない。だから、じっと待つ。「アレ」が通り過ぎるまで。
(長政様・・・)
いつになれば正気に戻るのだろう。近頃は、長政が「アレ」に侵食される割合も時間も多くて、
市は傍にいられない。どうか、早く「アレ」を止めてくれ。長政を、返してくれ。
(、早く来て)
己がこの世界へ引きずり込んだあの少女だけが、「アレ」を倒す術を持っている。
早く来て。助けに来て。長政が完全に乗っ取られてしまう前に。侵食されて、
自我を失う前に。どうか。
(早く、)
唇を噛み締めた。
◆ ◆ ◆
が目覚めたため、約束通り義姫の部屋を訪ねることとなった。もちろん、起き上がれるぐらいの
体力が回復してからだから、おおよそ3日後というところか。義姫がいる本殿は
朝だというのにかなり静かで、本当に部屋に居られるのだろうかと内心首を傾げてしまったが。
「すまぬ」
並んで座る政宗との前で肘掛に凭れ掛かる義姫は、沈黙の満ちる部屋に一つの
言葉を落とした。政宗に向けてなのか、それともに向けてか。どちらに向けた
謝罪かは分からぬが、いつもの高慢な彼女には珍しいことで(というかむしろ初めて
ではないだろうか)、二人は目を見合わせた。
「・・・・どうして、あのようなことをしたのです」
許す云々は、訳を聞いてからではないと判断できない。どうして
を使って政宗に毒を盛ろうとしていたのか、意を決して政宗が尋ねる。
「・・・・お主が・・・政宗が、妾のものになると思っておった」
何故、そう思ったのかは知れぬ。ただ、もしかしたらと。政宗がに裏切られたのだと
傷つけば、もう誰も信じられないと嘆けば。政宗は、血の繋がった妾だけを
信じて盲目に求めてくれるのでは無いか、と思ったのじゃ。
妖艶な唇から吐き出されるその言葉は、あまりにも突飛な発想だと思った。何を馬鹿な、
と思える話かもしれないが、もしもが紅麗に裏切られたら(そんなことありえないけれど)
(紅麗様はそんなことしない)、その空虚な心を埋めるように誰かに縋りつくだろう。
身近な人物に、信じている人に裏切られるのは何よりも辛いから、優しくされれば
心が揺れてしまうのだ。
つまり、義姫が言いたいのはそういうことなのだろう。
政宗は分からない、というように眉間に深い皺を刻んだけれど、には義姫の言いたいことが、
気持ちが分かってしまって。目を、伏せた。彼女も可哀想な人だ。素直に自分の気持ちを
伝えればよかったのに。かわいそうな、ひと。
「ならば、最初から俺を」
突き放したりしなければいいのに。そんな遠回りなことをしなくても、右目を失った
政宗を優しく抱きしめてくれるだけで、こんなにすれ違うことは無かったのに。と、
静かに訴える。義姫はゆるゆると首を横に振って、もう一度「すまぬ」と告げた。
「分からぬのじゃ。あの時どうして、あれほどの悲しみと憎しみの感情が満ちていたのか」
震える口元を隠す義姫の手には、いつも握られているあの、桜の描かれた扇は見当たらなかった。
それに違和感を覚えたは内心首を傾げるが、おそらくどこかに仕舞っているのだろう
と思い直す。隣で座る政宗は、唇を噛み締めて震えていた。
「すまぬ。幼き頃より、理不尽なことをしていたと思う。だから、許してくれとは
言わぬ。ただ、本当に、母はお主を---------政宗を、あい、しているのだと。それだけは、
信じて欲しいのじゃ」
母は、こんなに小さな人だっただろうか。政宗の記憶の中には、己に背を向ける
母の後姿しかない。そして、己は一生母を越えることはできないのだろうとさえ、
思っていた。しかし、どうだ。今己の前で静々と泣いている女は、己が敵わないと思っていた
母親ではないのか。
口元をぎゅ、と結んで一心に義姫を見つめている政宗から、目を逸らす。政宗や小十郎
(成実はどうだか知らないが)たちは、義姫が本当に心の底から政宗を嫌い、傷つけ
ようとしていると信じて疑わなかったのだ。確かに、義姫の行動は、冗談にしてはあまりにも
慈悲がなく、裏があると悟らせるには親子で触れ合う時間が少なすぎた。それもまた、
関係を歪めさせる要因だろう。
義姫の愛は歪んでいる。だから、そういう愛もあるのだと知らない政宗には、擦れた愛は受け入れがたいのだろうと、
は思う。
告げられた義姫の心中に、政宗の脳は考えることを放棄しそうになっていた。今まで自分は、
憎まれる程嫌われているのだという認識が覆されたのだから。混乱。その一言に尽きた。
けれど、義姫の気持ちを信じたいとも思う。今はまだ、戸惑いのほうが大きくて
素直に伝えられないけれど。
「母上、」
ゆるり。義姫の視線が、政宗を捉える。思わず、身体に染み付いた習慣で首を竦めてしまった。
母の瞳に傷ついた光が映る。どうして、彼女の感情に気がつかなかったのかと
罪悪感が首をもたげる。
の左手を取り、指を絡める。はちらりと政宗を一瞥しただけだった。
「母上、貴女に貰った身体を、眼を、傷つけてしまって。すみません、でした」
母は、いいのじゃ、と顔を伏せる。
「妾も、受け入れてやら無くて----------すまなかった」
ぽたりと、冷たい滴が白磁のような拳に落ちるのを、隻眼で見つめた。
<2009.10.23>
義姫は、昔嫁ぐ前に好きだった人が実は間者で、その手で殺してしまったという
裏設定がありました。政宗が病気になったのは、眼を失った、自分を恨んでいる
その男の呪いかもしれぬ、と。それが恐ろしく、また、別の要因で憎しみと悲しみが
助長されてしまい、政宗を拒絶してしまった、と。まあ、これ完全に蛇足だね!
設定人間なので、話は取り込みませんでした。
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