微かな風圧を横から感じて、は後ろへと下がった。それと同時に、ぶおんと大きな拳が が先程までいた場所を横切る。間一髪だった。あと数瞬遅れていれば、は間違いなく大けがを負っていただろう。 攻撃を仕掛けてきた、磁生の手によって。


 先程から、磁生の攻撃をかわしてはいるものの、未だに自分の攻撃は仕掛けられていない。 竜を呼び出すための名前を描こうとすると、その暇を与えないように磁生の攻撃が次々と襲いかかってくるからだ。 片手が使えないというのは、こんなに不便なのか。もどかしさに歯噛みしながら、 攻撃を避け続ける。右から無骨な拳が迫り、それを左手でいなす。


ああ、もう。


 こちらは竜の名が書けなければ戦闘能力が発揮できない。発揮するには数秒でいい、 印を書く時間が必要だ。しかし、その時間稼ぎを誰かに頼もうとも、他の人間は 他の敵を相手取るのに精一杯。市が召喚し続ける敵は切られて焼かれて、多大なダメージを与えられようとも、 何度でも起き上がってこちらに向かってくるのだ。磁生や紅と同じようにその肉体がすでに この世界にないからであろう。


 このまま同じような戦闘を続けても、こちらの体力が削られていくのみ。あとは、「まだ終わらない」 「もしかして永遠に、」という精神面までもがダメージを負ってしまえば、 森光蘭を倒す云々の前にどうしようもできなくなってしまう。


 なにか、この戦況を覆すなにか。それを、が、政宗が、小十郎が、この場にいる森光蘭 以外の誰もが考えていた。





◆           ◆           ◆






 あたりが、ひどく騒がしい。己も、市も静寂を好む性質なので、騒がしいという状況に 違和感を覚えた。とりあえずは混濁している意識をどうにかしようと、目をこじ開け、 無理矢理に覚醒へと促す。


 土の匂いと、それに交じって長政があまり好きではない鉄臭い血の匂いが鼻腔を擽る。 どうして、ここは、どこだ。長政には、外に出たという記憶は全くない。覚えている最後の情景は、 市の----------------泣きそうな、かお。それだけだ。


 ああ、そういえば市はどこだ。この、訳の分からない状況を問いたださなければ。 そこまで考えて、長政は見なれた黒い靄をようやく視界の隅に入れた。こんな至近距離で 今の今まで気が付かなかったのは、長政が知らず意識の外に置いていたからだろうか。 ゆっくりと首を動かして、黒い触手を召喚できる主へと視線を遣った。


「い、ち」


 市、市、泣かないでくれ。


 音にならぬその声に気が付いたのか、市は長政を視界に入れて、目を見開いた。長政さま。 薄い唇が己の名を形どるのが見える。市の手でかたく握りしめられた武器の先からは、 相変わらず黒い靄。その先の泣きそうな女の表情は、この事態が自分が望んで引き起こしたわけではない、 と長政に語りかけてくる。


 状況は、未だ不明。


 だけれど、泣きそうな女の------市の顔だけは、なんとかしてやりたいから。







大切なその一言が言えない-\








 「助けて、」と。囁くような切羽詰まったような押し殺したような、そんな声が聞こえたので。 男は暗闇を歩く足をぴたりと止めて、宙を見上げた。しかしながら、そこには何もない空間が 広がっているのみ。幻聴だったのだろうか、そうやって先程の声の原因を曖昧なそれで 誤魔化そうとしていると、後ろの人物が不意に声を上げた。


「く れ い」


 未だ声変りも迎えていないような少年の独特な声が、男の名を呼ぶ。それがやけに 焦ったようにも聞こえて、仮面をすでに捨て去った紅麗は、ゆっくりと振り返った。


「どうした、薫」


 真っ暗な闇の中で浮かぶ、己よりも下にある薫の目に視線を合わせ、紅麗は問うた。


「紅麗、が・・・・・いないんだ」
「・・・何?」


 薫の小さな口から恐る恐ると告げられたその事実に、紅麗は内心の動揺を押し殺しながらも、 薫の後ろに目を向ける。そこにはやはり何の変哲もない闇があるだけで、件の少女の姿は どこにもなかった。紅麗と薫と共に戦国時代へと付いていくと告げた少女は、本当に 数分前までは薫の後ろを歩いていたはず。いつのまに、その姿を消した?


 この禁術である時空流離を使うと決めた紅麗でさえ、この技の本来の力は知らない。 気配に聡い紅麗や薫が気付けないうちに、がどこか知らない地へ飛ばされたのだとしたら。 その秀麗な顔に浮かんだ表情から、紅麗の思考を悟ったのか、薫は顔色を青に変えて、 口を開く。


「ど、ど、どうする・・・?」
「・・・・・・・・・・・・」


 さて、どうするか。何か状況を打破する力があれば、考えがあれば。 眉間にしわを寄せながら、ぐるぐると思考をめぐらす。



 そうして。もう一度。


 「たすけて」、と。




 今度は、薫にまで聞こえるほどの大きな声だった。それでも囁くような声色ではあったが、 紅麗と薫はそれに気付き、次いで暗闇の中にぽっかりと浮かぶ光を見つける。 そうして、己らが幼少の頃より嗅いできた--------血の匂いと、殺気と、見知った、気配。


 紅麗は薫と視線を合わせ、光の方へと走り出す。助けを求めてきた女が怪しいことなんてもうどうでもよかった。 己の大事な妹を、助けるために。



 そうして世界は、交ざり合うのだ。










<2010.9.29>








くれいさま!