実家に帰って来たのはよかったが、いざとなると自宅に足を踏み入れられない。 何を言われるのだろうか。勝手に家を飛び出して、教師になったことを怒っているかもしれない。 憂鬱な気分になりながら、門の横に備え付けられたチャイムを押した。 この前、空座総合病院に行って竜弦さんに会ったとき、最後に言われた言葉の所為で、 わたしは今ここにいる。『姉さんに会ってやれ』だか、『実家に寄っていけ』だか。 詳細は忘れてしまったけれど、とにかく親に会いに行けという話だった。 母親のことは嫌いではない。父親のことも、普通に、両親として認識している。 だけれど、母親が竜弦さんの姉という事実で察してもらいたい。この地区で大きな 病院を受け継いでいる”石田家”は、ブルジョアだ。そのまま看護師の道に進んでいれば、 わたしは金銭的に一生困らなかっただろう。だけれど皮肉なことに、わたしは血が ダメだった。 チャイムを二三回押すと、ようやく中から鍵が開いた音がした。やっぱりお母さん仕事休みだったんだ ・・・。僅かな可能性に賭けた自分が心底嫌になる。わたしより背の高い大きな門を開き、 ゆっくりと敷地内に足を踏み入れる。庭の木々はちゃんと切りそろえられていて、 お手伝いさんが頑張っているのがよく分かる。玄関の扉を開けば、入り口には 猫を抱いた母親が立っていた。 「ただいまー」 「久しぶりねえ、」 「あはははははは」 竜弦さんによく似た美麗な顔で凄まないで欲しい。チキンなわたしはそれだけで腰が引けてしまう のだから。 「とりあえず上がりなさいよ。ご飯ぐらいは出すわよ」 「あ、うん。お邪魔しまーす」 大理石の床に靴を脱ぎ、スリッパを履いて母親の後に続く。白いブラウスに黒のパンツを すらっと着こなした母親は、本当にわたしと血が繋がっているようには思えない。 と、いうか家での普段着がスーツって堅苦しくないのだろうか。似合ってるからいいけどさ。 「適当にソファでも座ってて。今コーヒー入れるから」 「はーい」 黒と白ですべての家具が統一された空間にいると、何だか気が狂いそうになる気がするのだけれど。 とりあえず二人掛けの黒いソファに腰を落とすと、沈み込むような錯覚を起こすぐらい の柔らかな座り心地がした。自宅ながら心底羨ましい。そういえば、 わたしが家を出たときより家具が若干変わっているかもしれない。きょろきょろと 落ち着きなく辺りを見回せば、母親のかすかな笑い声。 「・・・何?」 「そういう落ち着きのないところは変わらないと思ってね」 「・・・そうかなー」 これでも大分落ち着き払っているぐらいなのだけれど。ことり、と首を傾げれば、 母親の抱えていた黒猫が近寄ってきた。とととと、と軽やかなステップでわたしの 足に身体を擦り付ける。 「この猫、人懐っこいね」 「そうかしら」 「うん。いつから飼い始めたの?」 母親はその問いにしれっと一言。 「あんたが出て行ってからよ」 「あ、そう・・・ですか」 「お父さんが寂しい寂しいっていうものだから」 ・・・お父さんってば・・・。まあ、こんな広い家に二人っきりって寂しいのかもしれない な、と思った。そんな父は、学校の理事長を務めている。医療系まっしぐらの母親と、 どういう関係で出会い、結婚に至ったのかは全く知らないけれど、お互い浮気もせず ここまで一緒にこれているのだから、愛し合ってるんだろう。ちょっと尊敬したり。 わたしの足元で寝転んでいた黒猫は、母親がコーヒーを運んでくるとすぐさま起き上がり、 ソファに座った母親の膝に陣取る。 「いただきまーす・・・」 香ばしい香りを嗅ぎ、コーヒーを口に含む。あ、美味しい。ソーサーにカップを下ろすと、 母親は口を開いた。 「で、うまくやってるの?」 「んーまあ、教師にはすこしずつ慣れていってる、かな?」 「そう。ま、なかなか帰って来ないから何とかやってるとは思ってたけどね」 猫を撫でながら母は言う。 「今日は、竜弦に言われて来たんでしょ?」 「え、うん・・・なんで知って・・・・」 そこまで発して、母親の顔がやけに満面の笑みだということに気がついた。 あれ、もしかしなくてもお母さんの差し金だったりする?恐る恐るそう聞けば、是との答え。 あの竜弦さん相手に頼みごとするんだから、うちの母親は強い。というか、竜弦さんが シスコンだったりするのだろうか。そうだったらわたし、ちょっと事実を消し去りたい気分だ。 「わざわざ頼んだのはね・・・まあ、少し聞きたいことがあったんだけど」 「聞きたいこと?」 竜弦さんに呼び出してもらってまで聞きたいことってなんなのだろうか。気になるとともに、 少し嫌な予感というものが身体に纏わり付く。恐る恐る母に尋ねると、ゆっくりと コーヒーを咽喉に流して、母親はカップをソーサーに戻した。 「あんた、彼氏いるの?」 「・・・・・・・・え?」 「だから、彼氏よ」 「ちょ、え・・・?」 待って待って。話題がいきなりすぎる。左手を米神に当て、「どういうこと?」と もう一度尋ねる。 「あんた、もうすぐ25でしょ。そろそろ結婚適齢期じゃないの?」 「・・・・・・・・・・・・・言わないでよ・・・」 「そうも言ってられないわよ。早く子供生んでもらわないと」 「気が早すぎじゃない?」 結婚してないのに子供って。そもそも、まだ新米教師なのに早々に産休に入ったら まず首飛ばされるよ、多分。げんなりとしながら告げると、母親はあっけらかんと言い放った。 「首になったら家継げばいいわよ」 ・・・・ここらへんの言葉がブルジョアだ。 「こっちとしては早く結婚してもらいたいの。で、彼氏いるの?」 「一応、いるけど・・・結婚は絶対に無理」 「何で」 何でそんなに結婚結婚言うのさ。もしかしなくても、二人が寂しいから子供産めって言うんじゃないよね? ありえそうな予想を振り払い、カップを持ち上げる。 「・・・とにかく、無理なものは無理なの」 「アンタ、もしかして・・」 「んー?」 「不倫とか・・・・」 「してないよ!!」 まさかそこを言われるとは。やけに真剣な顔をしていたため、少し身構えてしまったの だけれど、母親の予想は見事外れた。それに少し安心しつつ、安堵の息を吐く。 と、思えば、母親はなにやら紙袋を運んでくると、その中から何冊かの冊子のようなものを 取り出した。分厚さといい、大きさといい、嫌な予感しかしない。 「これ、に彼氏がいないんなら受けさせようと思ってた見合い写真」 「見合い!?」 「皆レベル高いわよー」 「要らないから!大体わたし今は結婚より教師頑張りたいから」 ふるりと首を横に振りながらそう告げると、母はずいぶんと残念そうに肩を 落とした。・・そんなちらちら見ても受け取らないからね!机の上に置いてあった チョコチップクッキーを口に運ぶ。適度に甘い感じがわたしの好みだ。 「今回は諦めるけど、ちゃんと考えときなさいね」 「分かってる」 「とりあえず来月中には写真持って行くから」 「はい・・!!?」 あくまでも諦めないつもりですね、お母さん。 『不倫はしてないけど、教え子に手は出してますって言えばいいじゃねえか』 (いいわけないでしょうが) 黙り込んでいると思ったら。そんなことを母親に言えば、ますますお見合いのことを 言ってくる気がする。これは気のせいじゃない。かっちゃんの言葉に嘆息すると、 目敏く見つけた母親が眉尻を上げた。 「溜め息吐いたら幸せが逃げるわよ」 これで結婚の幸せが一つ逃げたわ、と口走る母親から、わたしは目を反らした。 たわわ たくらみ 頼みの満月 (けっこんけっこんけっこん・・・) (、結婚なんてまだ早くないか?) (あーお父さんもそう思うよね) (けっこんけっこんけっこんけっこん) (お母様呪うの止めてください) |