人を無条件に愛せなくなったのは、いつからだったろう。この世に生を受けて二十五年。 あたしは、出会いと別れを繰り返している。





01.あたしと貴方





 大きな溜め息を吐き出す。こっちのテレビ番組って、どうして面白く感じないのだろうか。 日本にいたころは見尽くした芸を見ても、面白いと思っていたのに。現地人とは笑いのつぼが 違うのかもしれない。何気なくつけたテレビは、ひどくつまらないものだった。


 ちりりんっ

 家のベルが、訪問者を知らせる。ただ今午後11時50分。もうすぐ、日付が変わろうとする 時刻だった。は座り込んでいたソファからゆっくりと立ち上がり、玄関へと向う。 こんな非常識な時間に訪れるのは数年前から決まった人物、ただ一人だ。


 チェーンと鍵を開ければ、途端に凍えるような風が部屋の中に入り込んできた。 以前いた日本に比べれば幾分かマシなのだろうけれど、それでも冬の季節の温度に身体が慣れることは無い。 カーディガンの前を掻き合わせて、訪問者に笑いかける。


「久しぶり、あがって?」
「・・・・ああ」


 夜の帳にひっそりと紛れ込んでしまえるような黒衣のコートに身を包み、男は 無表情で頷く。男がどうせ扉を閉めてくれるだろう、とは踵を返し、リビングへ一人急ぐ。 先ほどから本当に寒かったのだ。女性の冷え性を甘く見ないで欲しい。キッチンで コーヒーを注ぐ。男は大きな身体をどすん、とソファーに預けた。


「ザンザス、」  なみなみに注いだブラックのコーヒーを、男----------ザンザスに、手渡す。 「今日はもう仕事終わったの?」
「ああ」
「そう」


 自分も同じくブラックコーヒーを手に取り、ザンザスの隣に座る。相変わらず、口数の少ない男だ。 もう少し自分から何かを話そうという努力をしないのだろうか。静かな空間。だけれど、それは決して 息苦しいような沈黙ではなかった。


 コーヒーカップを机の上に置くと、無骨な手のひらが首筋に入り込んできた。先ほどまで外にいた所為だろうか、 ひどくひんやりとした手に首を竦める。


「シャワーは?」
「・・・いい」


 低く、重圧な声が耳元で囁いた。は、この男の艶と張りのある声が好きだった。 もちろん、惹かれたのは身体の相性とか性格とか顔とか色々あったけれど、一番好みだと思ったのは 声なのだ。以前そう告げると、ザンザスには鼻で笑われたような気がする。 「何考えてる」思い出し笑いをしていると、愉快そうな口調で尋ねられた。 それがなんだか可笑しくて、口元に笑みを浮かべながらザンザスの首に両腕を回す。


「貴方のこと」
「はっ、」


 やっぱり、ザンザスは鼻で笑った。だけれど、満更でもないような顔をしていた。 そのまま、唇に噛付かれるようなキスが与えられる。目を、瞑った。














 この男と、------ザンザスとこのような肉体関係を持つようになったのは、が日本の 会社を辞めて、海外で新たな人生を送りたい、とここ、イタリアに来た年からだ。 日本と比べて、陽気な住人たちだ。日本人と知れるとよく詐欺に遭ったりしたが、 それらを除けばかねがね楽な生活を送っていた。


 は、ここイタリアで本屋のオーナーをやっている。チェーン店などではなく、裏道にひっそりと あるようなこじんまりとした店だ。もともとその本屋を営んでいた店主にお世話になっていたが、 店主が不慮の事故で亡くなってしまった為、がその本屋を譲り受けたのだ。 売っているものも古く高いものばかりだから、あまり頻繁には客は訪れない。 けれど、一回本が購入されればの手には数ヶ月は楽に暮らせる金額が入ってくる。 ザンザスは、その高価な本を大量に購入する客の一人だった。


『オイ、このクロウ・リードの本を売れ』


 店に入ってくるなり、開口一番にそう告げられた時、なんて俺様な男だろうと思った。 顔は美形だったが、目つきが悪い。根っから日本人の自分には合わないような男。 どうせ、これきりだろうと思っていた。しかし、意外にも男は何度も暇を見つけてはやって来た。 プレミアの付くクロウ・リードの本を一度に何冊も購入していくものだから、たいそう裕福な家庭に育ったのだろう。 このときのにとって、ザンザスの存在は未だただの金鶴という認識だった。


 その認識が変わったのは、いつだったのだろう。明確な日にちは分からないが、 肉体関係を持ったのは、イタリアには珍しい雷雨だった日だったはずだ。 その日の自分は突然降ってきた雨に、足を速めていた。ざあざあと耳障りな音。 当たりは真っ暗で視界も悪く、早く家の中に入ってしまおう、と近道である路地に足を踏み入れた 。


『っ、』


----------血の臭いがする。


 イタリアに来てから、血の匂いをかいだり、マフィアの抗争があるのは日常茶飯事 だったけれど、ここまで強い血の臭いは初めてだ。声はしないから、すでに死体が転がっているのかもしれない。 このまま路地を進んで、巻き込まれるのはごめんだ。ハンカチで鼻を覆い、踵を返す。 ぱしゃん、と背後で水溜りの跳ねる音がした。


誰かいる。


 恐る恐る後ろを振り向けば、最近知り合った顔。ザンザスだった。


『あ?何見てやがる』
『・・・・血が、出てるわ』
『これぐらいどうってことねぇ』
『でも、』


 どう見ても、「これぐらい」というレベルではない。ザンザスの顔色は青白く、 これは薄暗い路地や雨の所為では無いだろう。どこか遠くで、パトカーのサイレンが 聞こえてくる。誰か、この付近の住民が通報したのだろう。早くここから離れなければ。


 怪我をしていないほうの腕を掴み、自宅へと向う。ザンザスは小さく反抗したけれど、 相手が女性だからか。すぐ抵抗することを諦めた ようだった。


 ただ、一言言うとするなら、自分があの日ザンザスを連れ帰ったのは、何も下心があったわけじゃない。 あったのは怪我に対する純粋なる心配だけだった。下心は無かった。だけれど、 そういう行為へと縺れ込んでしまったのは、ザンザスが傷から発生した熱に浮かされてしまったからか、 自分自身にも隙があったからか。ザンザスとは以来数年来の付き合いだが、今となっても 真相は分からない。


 日本でも、そういう経験はあったが、あたしはその日ザンザスという男に抱かれて初めて 本当の絶頂を知った。人間の身体がこんなにも気持ちよくなれることを身を持って知り、 ただただ恐ろしくなった。


-----------どこか、ザンザスに惹かれ始めている自分に。
ああ、人と関りあうのなんて、真っ平ごめんだと思っていたのに。




ピリリリ・・・


「あ゛?」


 突如鳴り響いた携帯電話の着信音に、深く落ちていた意識が浮上する。ザンザスの狂暴ともいえる 行為に、意識を失っていたようだ。彼に暴かれると、必ずと言っていいほど失神しているあたし。 ザンザスはもう30を越えているのに、どこからその体力は来るのだろうか。 20代の自分の体力が時々情けなくなってくる。


「ああ、・・・・ああ。分かった」


 ザンザスの顔が、きりりと引き締まったかのように、見えた。いつもは無表情を 貫いているけれど、一定の電話相手のときと、情事の時だけは、男は無表情を 崩す。


あたしは、そんな表情を見るのが好きだった。


 血よりも遥かに澄んだワインレッドの瞳。美しい曲線を描く顔の輪郭。流暢なイタリア語が 紡がれる薄い唇。ああ、何て美しいのだろう。


 ザンザスはベッドから立ち上がると、辺りに散らばっていた下着を身に付けた。 「くそ、綱吉の奴・・・」’ツナヨシ’。よく、ザンザスの口から聞く名前だ。 いかにも俺様なザンザスを電話一本で従えてしまえるのだから、相当やり手の上司に違いない。


「帰るの?」


ごろん、と寝返りを打つ。シーツを手繰り寄せて、身体に巻きつけた。


「ああ」


 ザンザスは一言だけ告げると、部屋を出て行ってしまった。すぐに水を使うような音が聞こえ始めたから、 恐らくシャワーを浴びているのだろう。自分は思った以上に体がだるくて、ベッドから立ち上がるのすら 億劫だ。近くにあったリモコンを手に取り、テレビに向ける。電源をつければ、 液晶には白い肌の女が映りこんだ。ザンザスが来る前まで見ていた番組は、すでに終わったらしい。 何かの映画のシーンのようで、軽やかなリズムで女優が踊り始める。


 妙にさっぱりとした顔をして、ザンザスがリビングに入ってきた。髪の毛からは タオルで拭いきれなかった水滴が落ちる。水も滴るなんとやら、だ。軽く羽織っただけの ワイシャツから覗く、鍛え抜かれた身体。ところどころに見える傷は、銃創だろうか。


--------あたしは、ザンザスの職業がなんなのかを、知らない。


 興味はあったけれど、尋ねたことは一回も無かった。ザンザスの身体に刻み込まれた 幾重もの傷、時々仄かに薫る血の匂い-----。聞かずとも、何となく仄暗いことをしているのだということは 容易に想像がつく。それに、が根掘り葉掘り聞けば、こちらも色々聞かれることに なろう。ザンザスが、自分に興味があるかどうかは別にして。


 数いるザンザスの愛人の中の、平凡な女。あたしは、そういう立場でいたいのだ。 長く人間と付き合えば付き合うほど、欲が出てくる。裏切られる、絶望する。 無条件に人を愛するのは、怖くてたまらない。それに、もしも本気になって 今までのように「   」しまったら。


ぎゅ、と眉根を寄せる。


「どうした」ネクタイを締めながら、ザンザスが顔を覗き込んでくる。頬に宛がわれた 大きな手のひらが心地よくて、自分から顔を押し付けた。ふ、と男は笑う。


「じゃあな」
「うん、ばいばい」


 するりと、頬からザンザスの温度が逃げていく。
---------「また」、は言わない。
ザンザスの気が向いたときに訪れる、そんな関係でいいのだ。男の身体が遠ざかり、 玄関から小さく扉を閉める音が聞こえた。部屋の中には、シーツに包まった女が 一人と、映画の音声のみが存在している。


「愛人、か」


 空しい、と時々思わないでもないけれど、あたしはどうやっても愛人という枠から 抜け出せない。だって、愛するのも愛されるのもリスクが高すぎる。


目を瞑った。
あの男の声も、温度も、表情も。今だけは、忘れてしまおう。







END
<2009.12.10>






実は混合していたりしていなかったり。ザンザスと愛人様シリーズ、続きます。